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Spirit lamp-酒精燈


酒 精 燈
Spirit lamp


<忘却の残滓-1>

昭和21年新春/最後の“お書初め”

文化国家建設

 敗戦後はじめて迎えた昭和21年のお正月、(この時点・国民学校3年)与えられた“お書初め”は『文化国家建設』だった。
 「文化国家ってなんだろう・・・?」 はじめて出遭った言葉だった。
 「一等国が四等国になって、次は文化国家になるのか・・・?」
 ただ、実感したことは、「もう戦争はしないんだ! いや、できないんだ! そして僕はもう兵隊さんにならなくていいんだ!」
どう考えても“戦争”これだけは、もうできない、あまりにも、多くが、大好きだった人たちが亡くなりすぎた。
 そう思いながらも、なぜか釈然としない・・・。
 これが私の最後の“お書初め”になった。その後、私が通った学校では“習字”という科目はなかったからである。
 それから60余年を越える時が流れた。いまだに思い出すあの年のお書初め、『文化国家建設』という文言は、誰が考え、誰が子供たちに書かせるように指示したのだろうか?・・・

 平成20年、秋のことである。事務所を整理していると、書類の間から一冊の文庫本が出てきた。

 [江藤 著 “忘れたことと忘れさせられたこと” 文春文庫 1996110日 第1刷 文芸春秋]である。

 何気なく頁をめくりはじめた瞬間、私は愕然とした。そこには、あの少年の日に感じた、違和感に通ずる確かな“文書・記録”が記さていた。
 それは、あの敗戦を告げられた日から、僅か数週間の間に何があったかということである。永い間忘れていたこと、考えを停止してしまっていたことが、そこに記されていた。

この書を上梓された江藤淳氏に感謝・低頭しつつ、その一部を引用させていただくことをお許し願いたい。
 先ずこの本の冒頭の一部を引用させていただく。

<《》・引用記述>
 《(前略)・・・第一に、日本人が敗戦当事、降伏と占領をどのように受けとめていたかであり、第二に、占領中の「言論の自由」なるものの実態が、果たしていかなるものであったかである。

 この二つの点に関して、具体的な手がかりを得るためには、当時の新聞を逐一検討してみるのが一番手っとり早い。(中略)
 そんなわけで、私は、昭和二十年(一九四五年)八月十六日から十月三十一日にいたる「朝日新聞」と読売報知」を通読しはじめたが(中略)当時この時期を通過し、新聞を読むことのできたあらゆる日本人が、降伏と占領という未曾有の新事態を咀嚼し理解するための手がかりを、これらの紙面に求めたことは、おそらく誰にも否定しようのない事実である。
(中略)この時期の新聞は、好むと好まざるとにかかわらず(当時の)日本人の、拭い去ることのできない経験の一部をなしているはずである。それがどんな経験であったか・・・自分の記憶を薄れさせていた原因が何であったかを含めて・・・私は、これらの検討の対象を、主として「朝日新聞」の紙面に限ることにしたい。(後略)》(・・・は一部省略)

 《(前略)以下に敗戦から九月二日の降伏文書調印までを第一期とし、九月三日以降十月五日の東久邇宮内閣総辞職までを第二期、十月七日に成立した幣原内閣が、同十一日マッカーサーに憲法改正の指令を受けてから同月末までの時期を第三期として降伏と占領に対する日本人の受け止め方が、どのように変化し、かつ変化させられたかを検討することにしたい・・・(後略)》

 《「朝日新聞」の紙面を見る限り、敗戦直後の日本人が、ポツダム宣言受諾による降伏を有条件降伏、やがて開始されるべき連合軍の占領を保障占領と考えていたことはほとんど議論の余地がないもののように思われる。》

 八月十六日付の「朝日新聞」一面で、

 《帝国政府は一九四五年七月二十六日「ポツダム」において米、英、支三国政府首脳により発せられ爾後「ソ」聯政府の参加を見たる共同宣言に挙げられたる条件を右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に受諾す。
 帝国政府は右了解にして誤りなきを信じ本件に関する明確なる意向が速やかに表示されんことを切望す》

「ポツダム宣言受諾に関する八月十日付帝国政府の申入」とこれに対する連合国側の回答・・・。

 《(前略)降服の時より天皇および日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る聯合国最高司令官の制限の下に置かるものとす(中略)最終的の日本国の政府の形態は「ポツダム」宣言に遵ひ日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす(下略)》

 《(前略)天皇陛下におかせられては「ポツダム」宣言の条項受諾に関する詔書を発布せられたり(下略)》
と記されている。

その後の状況は各自の原体験、記憶、記録文書・報道記事・検証・評論・伝聞等を尊重したい・・・・。
 さて、私が“こだわり続けていた昭和
21年、年頭の“お書初め”、『文化国家建設』という文言を瞬時に甦らせた新聞記事・記述を重ねて引用したい。

 《第三と第四の用例は、いずれも九月二日の紙面で報ぜられている重光外相談話に見ることができる》

<引用・記述-1>“重光外相談話”より

《・・・明治維新のときも対外的に見ればその実質は無条件降伏であった。あの事態に関してわれわれの先祖はいかに対処したか。堅忍不抜、奮励努力して明治の時代を開いたではないか。吾等はこの先祖の努力に劣るやうな心構えでは相ならぬ。(中略)明治維新における不平等条件は明らかに列強に対する無条件降伏であったが、明治の人々は忍苦に耐えて国を興した。たゞその方式については前述の如く深刻に反省し、いまこそ新たな出発点に立った心構へをもって、将来大国として発展するために政治体制の確立においても精神文化、科学の研究においても世界の水準を超ゆる努力を積み重ね大国としての素質を十分培養することが必要である。・・・(下略)》

 この日午前九時、ミズリー艦上で、重光外相は梅津参謀総長とともに降伏文書に調印した。・・・とある。

 更に、九月五日、貴衆両院でおこなわれた東久邇首相宮の施政方針演説を九月六日付「朝日新聞」一面の前面を割いて全文を伝えている。

<引用・記述-2>“東久邇首相宮の施政方針演説”より

 《(前略)敗戦のよって来る所は、もとより一にして止まらず、後世史家の慎重なる研究批判に俟つべきであり、今日われわれが徒に過去に遡って、誰を責め、何を咎むることもないのであるが、前線も銃後も、軍も官も民も、国民尽く、静に反省する所がなければならない。我々は今こそ総懺悔し、神前に、一切の邪心を洗い浄め、過去をもって将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増して挙国一家乏しきを分ち、苦しきを労り、温かき心に相援け、相携へて、各々その本分に最善を尽くし、来るべき苦難の途を踏み越えて帝国将来の進退を開くべきである。征戦四年、忠勇なる陸海の精鋭は、酷寒を凌ぎ、炎熱を冒し、つぶさに辛酸をなめて、勇戦敢闘し、官吏は寝食を忘れてその職務に尽瘁し、銃後国民は協心尽力、一意戦力増強の職務に挺身し、挙国一体、皇国はその総力を戦争目的の完遂に傾けて参った。もとよりその方法に於いて過を犯し、適切を欠いたものも尠しとせず。その努力において、悉く適当であったと謂ひざりし面もあった。しかしながら、あらゆる困苦欠乏に耐えて参った一億国民の敢闘の意力、この尽忠の精神力こそは、敗れたりとはいへ、永く記憶せられるべき民族の底力である。》
(中略)
 洵(まこと)に畏れ多い極みであるが、「朕ハ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」とおほせられた。この有難き大御心に感奮し、愈々(いよいよ)決意を新たにして将来の平和的文化的日本の建設に向かって邁進せねばならぬと信ずるのであって、全国民が尽く一つ心に融和し、挙国一家、力を戮(あわ)せて不断の精進努力に徹するならば、私は帝国の前途はやがて洋々として開けることを固く信じて疑わぬ次第である。かくしてこそ始めて宸襟を安んじ奉り、戦線銃後に散華殉職せられたる幾十万の忠魂に応え得ると信ずるのである』(文中( )・・引用者)

 これを受けて、この日から「天声人語」の旧に復した「朝日」の寸評氏は記して・・・、

 《東久邇首相宮殿下には、切々数千言をもって大東亜戦争の結末にいたる経過と敗戦の因って来る所以を委曲説述され、今後の平和日本建設の方途を示された》(以下略)と記されている。

 

<引用・記述-3 >“米国務長官バーンズ声明”より

九月四日付の「朝日新聞」に掲載されたワシントン二日発同盟の電報は、米国務長官バーンズの次のような声明を伝えている。

 《日本の物的武装解除は目下進捗中であり、われわれはやがて日本の海陸空三軍の払拭と軍事資材、施設の破壊と戦争産業の除去乃至破壊とにより日本の戦争能力を完全に撃滅することが出来るだらう。日本国民に戦争ではなく平和を希求させようとする第二段階の日本国民の「精神的武装解除」はある点で物的武装解除より一層困難である。

精神的武装解除は銃剣の行使や命令の通達によって行はれるものではなく、過去において真理を閉ざしていた圧迫的な法律や政策の如き一切の障害を除去して日本に民主主義の自由な発達を要請することにある(中略)

 聯合国はかくして出現した日本政府が世界の平和と安全に貢献するか否かを認定する裁判官の役目をつとめるのだ。われわれは言葉ではなく実際の行動によってこの日本政府を判断するのだ》

この声明に対し著者、江藤氏は

《バーンズに「精神的武装解除」を主張させたのは、第一に報復への恐怖であり、第二に占領によって接触を開始した異文化への薄気味悪さであったにちがいない。異文化とは、異なった価値観を内包した文化にほかならないが、トルーマン、バーンズをはじめとする当時のアメリカの指導者たちはこの異文化を自らの文化に等質化し、異なった価値基準を破壊して同一の価値基準を強制しない限り、報復の危険は去らないと考えたのである。(以下略)》

と述べ、続いてアメリカが、ポツダム宣言を無視してまで日本の「民主化」を急ごうとした理由について考察を進めている。
 著者は、更に、例をあげて・・・、

《(前略)サー・ジョージ・サムソンが名著『西欧世界と日本』のなかで指摘している通り、このように「強力な政治的圧力と高度に組織化された宣伝」とによって、一つの文化が「意図的」に影響力を強制しようとしたのは、史上ほとんどその前例を見ることができない。サムソンがあげているのは、第一次世界大戦後のベルサイユ体制下におけるドイツ処理、ソ連指導下の国際共産主義運動、ならびに第二大戦後の連合国による日独の「民主化」のわずか三例に過ぎないが、なかんずくアメリカが、ポツダム宣言を無視してまで日本の「民主化」を急ごうとした一つの理由は、「異常な平静さ」で占領の開始を受け止めた日本人が、実は少しも負けていないように見えることに強い衝撃を受けたためともいえるのである。》・・・と

 《一方占領軍による言論統制の動きは、九月十日前後から表面化していた。》

 《連合軍最高司令部が「新聞報道取締方針」を示唆したのは、九月十日のことであった。九月十日付の紙面には、政府から十一日付で各地方総監ならびに各地方長官に通達されたその内容が掲げられている。》

《一.   真実に反し又は公安を害すべき事項は掲載せざること

《二.   日本の将来に関する論議は差支なし、世界の平和愛好国の一員として再出発遷都する国家の努力に悪影響あるが如き論議は取締るものとす

《三.   公表されざる聯合国軍隊の動情大及び聯合国に対する虚偽の批判又は破壊的批判乃至流言は取り締まるものとす

《四.   第一項に反するが如き報道を為したる新聞その他の出版物に対しては聯合国さ最高司令部はこれが刊行を停止することあるべし》

以後、新聞、放送、民間通信に対する統制の強化は熾烈の度を増していったことは言を俟たない。
 新聞、ラジオ、刊行物のみならず、公私の書簡にいたるまで厳重なる監視下にあった。中でも忘れてはならないのは、教育行政、教育現場に対する深遠且つ強制的な改変が着々と実行されていたことに思い至るのである。

私は、このような状況下で迎えた昭和二十一年正月の“書初め”を繰返し、繰返し、反芻してきた。
あの日の違和感は、何であったか・・・と

 子供たちに『文化国家建設』という語句を書かせた背景に何があったのか・・・と。
 同時に、あの日の静けさと、空の青さ(群青)から覚醒し、その後の生くる為の行動の凄まじさと、“無”から生ずる“明るさ”と、その裏側の“忸怩”たる心情は何であったのか・・・と。

ここに到る、長い“文献引用”を重ねてお詫び申し上げる。

今、2009年の年頭に立った。また、営々と忘却と追憶の襞を重ねていくことであろう。

これまで引用させていただいた著書“忘れたことと忘れさせられたこと”のもう一つの重要なる主題は(V節)冒頭の『戦後文学の破産』であろう。まさに共感しながらも、この分野の感想はあえて控えさせていただく。

そして、あらためて、この60年余を振り返る。

昭和21年、年頭に『文化国家建設』と書いたか、敢えて書かなかったか、それは記憶にない。あの日の少年は、その後、“兵隊さん”とは呼ばれなかったが、“猛烈”から“壮烈”とまで譬えられた“産業戦士”の一兵卒になったことだけは、確かに記憶している。

なぜ、あの日、『文化国家建設』に違和感を覚えたのか。それは、“上”から“書け”言われるべき言葉ではなかったから、と、漠然とそう感じとっていたのかもしれない。

“文化”とは国家や、ましてや支配者から言われるまでもなく、“個”から“個”へ、そして更なる“個”へ継承されるべき確かなる“誠心(まことごころ)”であろう。親から子へ、そして孫子へ継承し続ける“暮らしの基(もとい)”であろう。

敗戦以降、来しき方を振返って、“文”は、さておき“芸”は確かに復興し、新境地を開拓し、更なる発展を遂げてきたと、私は思う。

では、もう一つ、“科学・技術・産業・経済”の面はいかがであったであろうか。

敗戦を期に軍事は勿論、工業国家としての途も閉ざされたことは言を俟たない。壮健・有為なる者の多くが戦陣に斃れ、後を託された者も戦火の中に己が部署を死守し且つ、敗戦の後、復員せる者とその家族子女を護らんと欲した。

その者どもの多くも、1951年(昭和26年)98日、サンフランシスコ講和条約の調印をまたず病に斃れていった。
 多くは結核であった。不条理な死を受容せざるを得なかった者、その数のあまりにも多きに、ただ呆然とするばかりである。重ねて
敗戦後数週間、数月にして燃え尽きていった方々の数、いかばかりであろう。これまた命を削る奮戦の後の戦死であったと言えよう。生きて我が子・家族、戦友、職友、その子女らの行末を、ましてや拠るべきこの国の姿を、行末を見届けたいと願ったであろう。

 今、忘却の果てに、何故か脳裏に捨てそびれていた一つのシャーレがあった。その底に僅かに付着していた残滓を目にした。そこに時間という溶媒を滴下し、生き暮れて、60有余年を踏んだ“自己”に見たてた一葉の濾紙を当ててみた。そこに浮き出したおぼろげなる縞模様。あれから、いつ、いつ・どこで、なにがあったのか。日本はその後も敗戦を積み重ねて来たように思えてならない。
 20世紀末の冷戦にも、わが国は西側に片足を置きつつ無視されながら敗戦に追い込まれていった。その後遺症はいまなお癒えない。
 ある時期、日本は米国に次ぐ“経済大国”になったと自負した一時期もあった。それも、かつての“一等国”同様、幻想であった。故にか、今も、この後も、『文化大国』、『経済大国』などという言葉に幻想を画きたくはない。

 “文化”、それは、命の継承とともに、心に宿り、醸成された精神(spirit)と、生(life)と、営み(history)と、その証(あかし)/(proof)を、灯火として、点から点へ、点から群へ、念々と相嗣され続けられた遺伝子を素直に受容し、感謝を込めて身にあらわす行いの一つ一つの積み重ねではあるまいか。

 今、重ね重ねふり返って、私たちは、それぞれに、“個”が相嗣した誠心(まことごころ・文化)の環(和)の拡大を念じつつ、過去を背負い、新たな一歩、一歩をを踏み出していかなくてはならないのかも知れない・・・!。